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シルバー生野

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銀の歴史

「白金も黄金も玉も何せんに勝れる宝子にしかめやも」
-山上憶良 万葉集第五 803-

と歌われた白金とは、銀のこと(黄金は、金のこと)です。
  現代でも金や銀よりも子供が大切なことはかわりありません。しかし、金・銀のもついろいろな特性が社会へおよばす影響は、万葉の時代よりはるかに大きくなっています。

銀の発見とその命名のいわれ

  金の発見が紀元前(B.C)6000~4000年ころで、銀はそれより少し後といわれています。銀は、白色の金属しろがねの意味で、「艮」の音の表す意味は、白です。
  Silverは、アッカド語(メソポタミアで用いられた言語)からきたといわれています。
  元素記号のAgは、ラテン語のArgentumで、輝くを意味するギリシャ語のArgosに由来しています。
  錬金術師たちは、月を意味する「艮」を使用し、日本では「亜健」が最初に使用され、亜爾健去母(アルゲンチウム)からきています。

文明と銀のかかわり

「金を背負うならば、近づくことのできない砦はない」
-マケドニアのフィリップス2世(B.C.4世紀)-

という言葉や、これとは反対に黄金があるために攻め滅ぼされたインカ文明は、金や銀の権力の象徴、魔力を現しています。
  銀の産出は、エジプトでは少なく、銀が金よりも貴重であった時代もありました。
  メソポタミア(B.C.1600~B.C.1100年)では、ウル王朝(B.C.2500~B.C.2350年)の古墓の発掘品が代表的で、優れた細工を施した黄金、自然金のエレクトラム(金-銀合金)製品があり、これらはB.C.3000年ころシュメール人によって行われるようになった金属加工技術を駆使したものでした。
  春秋時代(B.C.700~B.C.403年)ころになり、金・銀めっきなどに使用されるようになりました。

日本の銀の歴史

 銀は、平安時代に対馬と摂津多田銀山から産出されたと記録されています。
  島根県の石見銀山の発見は南北朝のころで、銀山として開発されたのは1526年(大永6年)です。当時、日本では銀を精錬する技術がなかったため、銀鉱石は朝鮮へ輸出し、精錬した銀を輸入していました。
  1533年、朝鮮から灰吹法(はいふきほう)が導入されると、金・銀の生産量は増加し、安土桃山時代が花開くことになりました。
  甲州金や豊臣秀吉が作った天正大判などの金貨、銀貨は、通貨としてではなく論功行賞用として利用されました。
  天下統一がなされると、金・銀は要職を得るための権力のある人への贈呈や、権力富力の誇示という政略的な役目を持つものに変化し、秀吉や家康は莫大な金・銀を蓄積することになりました。
  江戸時代には、精錬法の見直しが行われ、焼金(やきがね)という方法が開発され、実用化されました。これは、金と銀からなる筋金(すじがね)を擢石で砕き、生塩を混ぜて木炭といっしょに加熱すると、銀は塩化銀(AgCl)となり、これを水の中で冷却し、塩金(しおがね)と呼ばれる金と塩化銀に分離する方法です。これにより純度99.5%程度の純金が得られました。
  明治新政府は、外人技師により産業の近代化を図り、最初に導入した技術が混汞法(こんこうほう)と呼ばれる水銀による精錬技術でした。
  また、佐渡、生野、院内などの金・銀鉱山を官営化し、金・銀を増産し貨幣制度の確立を進めました。

貨幣としての銀

 クロイソス王時代(B.C.560~548年)には、ダイコレス金貨とシグロイ銀貨が発行され、金貨1枚は銀貨20枚に相当しました。
  実際の取り引きには、銀貨が主に使用されていました。
  家康は、関が原の戦いの後に、金座、銀座を設け、大判、小判、二分金、一分金、一朱の四進法を定め、さらに丁銀、豆板銀の秤量銀貨を発行し貨幣の全国統一を図りました。この貨幣制度が明治まで続きました。

以上「貴金属のおはなし」より